1. 天気図少年

天気への興味

松野太郎さんは1934年長野県で生まれ、こども時代を茨城県の水戸市とそのきんこうで過ごしました。激しい戦争の時代で、くうしゅうがあると機関じゅうたまがビュビュビュっと飛んできて怖い思いをすることもありました。しかし戦争が終わると一転して自由なふんが広がり、松野さんも学校で野球をしたりふんせきたんさくしたり好きなことができたそうです。

初めて天気に興味を持ったのもこのころです。飼っていたウサギのためにエサとなるクローバーやオオバコ、ナズナなどの草をりに行くのが日課だった松野さんは、ある時れた草はウサギによくないと聞き、それから天気の変化に注意するようになりました。

そして中学1年生の時、松野さんを気象学の世界に導いた決定的な出来事が起こります。理科の授業のいっかんで水戸の測候所(気象の観測を行うところ)を訪問したときのこと、見学を終えた帰り道、大事な万年筆をうっかり忘れてしまったことに気づいた松野さんはひとり測候所に引き返しました。測候所の方は快くむかえ入れてくれ、それだけでなく松野さんにいろいろなことを教えてくれました。

将来の天気を予報するために"天気図"というものを書いていることを知ったのもその時が初めてでした。今ではテレビの天気予報で毎日目にする天気図ですが、戦時中、気象データは秘密にされており、戦後になってもしばらくは新聞にも天気図はっていませんでした。

より天気への興味が深まった松野さんは、家にあった百科事典を引いて理解をすすめ、漁船などに向けた気象通報のラジオ放送が始まると、毎日それを聞いて自分で天気図をくようになりました。毎回紙に日本周辺のけい入り地図を書き写し、天気記号と等圧線を描きました。こうして松野さんは"天気図少年"になったのです。

大学へ

さて、天気図少年松野さんは1955年東京大学の理学部に進学しました。最初の一年は、数学、力学、電磁力学、量子力学を学び、地球物理を専門とする学科に進んだ後にしん学、海洋学、固体地球物理学などの地球物理を学びました。気象学の講義は週に一度だけで、そのころは専門と言うにはまだまだというような時期だったそうです。

当時は大学に進学しても家の仕事を手伝うためにちゅうでやめなければいけないなど、学業に専念できるような学生は多くありませんでした。ですから、松野さんが1957年に大学を卒業し大学院に進めたのは非常に幸せなことでした。松野さんも会社に入るための面接を受けようとしていたのですが、お父さんと相談し、仕送りとしょうがく金それにアルバイトの収入も合わせて大学院に行けることになりました。

東京大学にて(左端が松野さん)

東京大学にて(ひだりはしが松野さん)

2. 気象学のだいてんかん

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松野太郎博士

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